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04 December. 2015

コラム「超人探訪記」第9回「永劫回帰のキャラクター」

文:氷川竜介(アニメ特撮研究家)

 第9話のテーマは「永遠に生き続ける家族」である。本作の「超人」は機械もふくめて基本的に「生命」を宿したものだが、「フィクション中の生命」という根源について、改めて考え直す機会をあたえてくれた。
 
 一般に「キャラクター」は「成長タイプ」と「永劫回帰タイプ」に大分類される。「成長」とは肉体・精神ふくめた「変化」全般を指す。神話やおとぎ話などの大半には「はじまり」と「おわり」があり、不可逆な「変化」が起きる。それが読む前後で読者が感じる「変化」として共有され、「物語の役目」が成就する。変化の中で、もっとも分かりやすいのは「人の死」だ。人間にとって最大の関心時は「来し方行方」だから、個々人レベルでは「生と死」になる。死のもたらす哀しみが受け手の内心とシンクロしてカタルシスが得られるのが、「悲劇」の構造である。
 
 対する「永劫回帰タイプ」ではキャラクターが成長せず、次のお話のスタートポイントが繰りかえしとなる。百年以上前に新聞で始まった「コミック・ストリップ」がこの構造だ。数コマ(日本は4コマ)でキャラクターの奇抜な行動が描かれ、手痛い失敗など軽い落着がついて幕を閉じる。読者はいつから読み始めてもいいし、結末は気にしなくてよい。なんら成長しない代わりに時事を織り込むなど、ネタの新規性がシリーズを続かせる。

 そして50年代から60年代のテレビ黎明期では、一幕ものの舞台演劇から継承された「シチュエーション・コメディ」という様式がアメリカで隆盛となり、日本にも導入されて文化的に大きな影響をあたえた。『奥さまは魔女』の「もし主婦が魔女だったら」のようにツカミのある特殊状況を設定し、個性的なキャラクターで毎週の放送をループ的に「回す」喜劇である。テレビでは毎週の視聴習慣が重視される。朝に始まり夜で終わり、眠りというリセットをはさんで、また次の朝が始まる。そんな「永劫回帰の日常」で開放的に流し見されるテレビは、劇場という「閉鎖空間」で鑑賞される映画とは違う性格がある。

 こうした背景を考えてみると、数十年単位で「変化のない永劫回帰のTVアニメ」が、ドッグ・イヤーとまで言われた激変続きの現代社会で、「変わらない安心感」という高い価値を示す逆説的なロジックも見えてくる。時を超え常識を超え、なおかつ超えている事実を気取らせもしない盤石な安定。そこには、究極の超人性が宿っているのではないか。

第9回「永劫回帰のキャラクター」

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©BONES・會川 昇/コンクリートレボルティオ製作委員会